私たちの声

『海を知らぬ少女の前で』

昨年12月18日、水戸市の自宅で平成16年に両親を鉄アレイで殴り、殺害したとして殺人罪に問われていた当時19歳の長男に対して、水戸地裁で無期懲役の判決が下りました。

ニュースで報じられた裁判長の判決文に対して、数人の若者から「違和感を感じ、何か変だと思う」というこの裁判に対して感想が伝えられました。子供が<親殺し>をするテーマは私たちの歴史の中では決して目新しいものではありません。この違和感、何か変だと思うことに対して、考察を試みることにしました。

私が10代の終わりに読んだ寺山修司(詩人、劇作家)の文章の中に、母殺しについて書かれていた部分がありました。彼は東北の青森に育ち、若くして東京に出ました。彼が詠む短歌や詩は、私の愛読するものでもありました。故郷を呪い、家出した母について愛憎をあわせ持った感情をむき出しにした短歌は私の心を癒しました。

数年前に50代半ばで彼はこの世を去りました。その後しばらくして、私は死んだはずだと思っていた彼の母親がテレビの画面の中で寺山修司の若きころを語っているのに驚きました。彼が書いた評論や詠んだ歌の中に書かれた母親は死んでいた(殺されていた)のですから。

私は初めて彼が虚構の中で母親殺しをしているのに気がついたのです。私は、はっとしました。私が癒されたのは、彼が創り上げた虚構の世界だったのです。

話は少し変わりますが、私が10代のころからの知り合いで、50代近くになる女性がいます。その一人の女性の生き様をよく知っていました。小学校時代から摂食障害のため、登校拒否をし、中学校も半年だけ出席し、高校は一週間で中退し、その後の人生は推して計るものがありました。その彼女が最近私にこんな話をしてくれました。

「つい最近、私は大学を卒業したのよ。」その言葉を聞いて、大学に行く時間がよくあったのかなと思いました。よく彼女の話を聞くと、実はこうだったのです。

ここ数年にわたって、彼女は寝ているときに見る夢の中で、小学校を楽しく卒業し、みんなに祝福してもらって、しばらくして楽しい中学校時代の夢を見、数年後あこがれていた大学の卒業も夢の中でできたということです。父母も祝ってくれたことがとても嬉しかったと彼女は語ったのです。

私はそのとき、夢という虚構の中で、彼女自身が自らの人生を癒していたことに気づきました。この示唆に富んだ精神世界のあり方に考えさせられるものがありました。

海を知らぬ少女の前で
麦藁帽の僕は両手をひろげたり

上記の短歌は、寺山修司が書いた短歌集(恋歌)の中にあります。私も長いことそらんじ記憶していたものです。アパートの貧しい暮らしの中で、海を見たいと言った彼女の前で両手をひろげて「これが水平線なんだよ」と虚構の中の豊かなイメージを伝えてくれています。

私たちは現実の中に生きています。しかし現実だけが私たちの心がある場所ではありません。言葉を換えれば、私たちの心は現実では貧しく、虚構の中では豊かであることも確かです。

実は、私が違和感だと感じたことは、現実には無期懲役という判決を受けましたが、19歳の少年が本当の意味での親殺しができてはいないのではないかと感じているからです。親殺しができずに独房の中で生き続けるとしたら、こんな悲劇はないでしょう。

もし虚構の中で彼が親殺しができていたならば、心安らかに癒されているかもしれません。いや、そうにちがいありません。尊属殺人という法律用語が無くなった現在、この判決から無期懲役という《時代の罪》を背負わされているような気がしてなりません。

これからの予定